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和歌山~紀伊田辺編9~

熊楠が苦手だったもの。

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それはミミズ。

幼少の頃より吐き気を催す程

怖く気味悪かったらしい。

でも和歌山中学(現桐蔭高校)時代

クラスで植物採集にいった際足元の大ミミズを見て叫び声をあげたそうな。

すると引率の鳥山先生が熊楠に言った。

「これから自然科学の道を歩もうとしている者がミミズを怖がってどうするのか。

 今日からミミズと親しむことから始めなさい」と。

感銘を受けた熊楠はそれから毎日、目を閉じミミズを掌にのせると

三分、五分とその時間を延ばして行った。

そしてとうとうミミズを手掴み出来た時の嬉しさは

いくつになっても忘れることが出来なかったらしい。

と同時に鳥山先生の優しい笑顔が目に浮かぶのだと

娘の文枝さんに話したそうだ。






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また熊楠は真言密教を常に信じていた。

ただ教文を唱えるとか形に表すのではなく

何か不可解な出来事に遭遇したときに

きちんと着物を着て書斎に入り正座瞑目するのだが

ある日文枝さんがこっそり覗くと平素の父親とはまったく別人の

森厳な態度に圧倒され声を出したほどだったらしい。




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文枝さんの言葉を借りると

「晩年は特に記憶の鍛錬を怠りなく、研究に対しては自己を叱咤激励し

命の尽きるまで学問を愛し楽しみ、よき友を得

よき時代に生き諧謔性に富む厳しく愉快な父であった」


今回で取り敢えず熊楠シリーズの最終回です。

ほんの触りだけしかご紹介できませんでしたが

またいずれご紹介して行きます。

和歌山にはまだ世間的にはあまり知られていない偉人達がいます。

こちらもまたの機会にご紹介します。


今回の紀伊田辺編最後は

弁慶君1号、2号、3号に〆て貰いました。



















分類:暖色系モダンデザイン弁慶型タイプⅠ
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紀伊田辺

和歌山~紀伊田辺編8~

「雨にけふる神島を見て紀伊の国の

             生みし南方熊楠を思ふ」


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1962年(昭和37年)5月。

昭和天皇・皇后両陛下が南紀行幸啓の際

熊楠が守った神島を望見されて詠まれた歌。

その石碑は南紀白浜にある南方熊楠記念館前に建てられている。







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1929年6月1日。

熊楠にとって生涯の喜びとなった昭和天皇への進講の日。

普段は裸で生活している熊楠もさすがに正装をしたものの

標本を陛下に献上した際に入れたのが

キャラメルの箱であったり、タバコの箱であった。

ただ桐などの箱にせずキャラメルの箱にしたのは

陛下の前で標本を見せる時にふたを開けやすいと思ったからだそうだ。






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そんな熊楠だが娘から見た熊楠は

どんな父親だったのだろう。

娘の文枝さんは時々尋ねられたそうである。

「あなたのお父さんはどんな人でしたか」と。

「うーん…」

その都度返答に困ったらしい。

それくらい色々な顔を持っていたのだろう。

次回はそのエピソードを幾つか。

















分類:暖色系モダンクラシックデザイン行灯型タイプⅠ
分類:暖色系モダンクラシックデザイン格子四面吊り灯籠型タイプⅠ
分類:暖色系モダンクラシックデザイン四面灯籠型タイプⅠ
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紀伊田辺

和歌山~紀伊田辺編7~

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「中国革命の父」と呼ばれる孫文が生まれたのは1866年11月12日。

一方熊楠も1867年5月18日生まれだから

歳は半年ほどしか違わない。

歳が近かったという事も二人が親密になった要因の一つかもしれない。

ロンドンで出会い意気投合した二人。

毎日のように会っては何について話したのか。

お互いの国の情勢、学問等推測の域をでないが

女性の話も勿論しただろう。

孫文は硬派で熊楠は軟派というイメージだが

実際は逆で熊楠は女性に対しては奥手で

孫文は国に妻がいながら日本で愛人をつくるほどで結構もてたらしい。







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ロンドンで二人が共に過ごしたのは

1897年の3月16日から6月30日までの極めて短期間だったが

かなり濃密な時間を過ごした。

何がお互いを惹きつけたのか非常に興味をそそられる。

1900年、熊楠が和歌山に戻ったとき

孫文は既に日本にいた。

そして孫文が和歌山の熊楠の元を訪れたのが1901年の事。

ただこの再会が最後となってしまう。

その間二人の間で7通の手紙のやり取りがされているのだが

今残っているのが孫文から熊楠に宛てた手紙。

熊楠が孫文に宛てた手紙の所在が不明なのである。

今ままで多くの人間がこの手紙を探しているのだが未だ見つかっていない。

先日伺った顕彰館でも恐らく残っていないとの事。

ただあるところから、もしかしたら中国にある数多くの孫文記念館のどこかに

あるかもしれないとのことなので望みは持ち続けたい。










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孫文が熊楠に宛てた手紙に書かれていた住所は

横浜山下町111。

中華街の外れで今はマンションが建っているが

近いうちに訪れてみようと思う。





















分類:白色系モダンデザイン六面吊り灯籠バリエーション型タイプⅡ
分類:白色系モダンデザイン乳房型タイプⅡ
分類:白色系モダンデザインスフィア+ボックスバリエーション型タイプⅡ
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紀伊田辺

和歌山~紀伊田辺編6~

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では南方熊楠とは何者なのか?

生物、細菌、天文、民俗、鉱物、文学、宗教学など

どの分野をとってもノーベル賞に値するほどで

記憶力は天才的で、英語、仏語、中国語、ドイツ、オランダ、イタリア、ロシア…

等19ヶ国語に通じていた。

子供の頃から山に入ると一日中歩き回って植物採集していたことから

ついたあだ名はてんぎゃん(天狗)。

その後東京大学予備門(現東大)に入学するも

各地の博物館や植物園に通いつめるあまり落第。

これを機に学校を辞め「勉学はアメリカの方が先を行っている」とアメリカへ留学する。






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したものの講義を聴いているうち馬鹿らしくなり

「日本の大学より劣ること数等」と退学。

以来独学で様々な分野を勉強する。

キューバではサーカス団の象使いの助手をしたり、女芸人のラブレターを代筆したり

はたまた独立運動に参加したなど様々な逸話が伝えられている。

そしてイギリスに渡るのだがこのときロンドンに亡命中の孫文と出会う。

1897年(明治30年)の事である。

熊楠と孫文の関係についてはまた次回。

これら外国生活の支援は熊楠の父弥兵衛、そして弟の常楠によるものだった。

和歌山に戻ってから住居をかまえたのがこの田辺の地。

益々植物、粘菌などの研究に勤しむと同時に

神社の鎮守の森が失われると危惧し神社合祀令に反対し

田辺湾の無人島神島(かしま)を守ったことから

自然保護運動の先駆者としても評価されている。

とは一般的に知られている熊楠像。

ではどんな父親だったのか。

娘の文枝さんがお話になっていたことがあったので

それも追々と。






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出番待ちの街灯達。

目を閉じればこれらに灯りが点っている風景が心に浮かんできます。

きっと。



















分類:暖色系モダンデザイントンボ型駐車場灯タイプⅡ
分類:白色系スタンダードデザイン道路灯タイプⅠ
分類:白色系スタンダードデザイン歩道灯タイプⅠ
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紀伊田辺

和歌山~紀伊田辺偏5~

ちょっと一息。

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熊楠も賛同??




















分類:白色系スタンダードデザイン道路灯タイプⅠ
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紀伊田辺
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